弱さによる支配
小学校3年生くらいのことだったと思います。あるとき私とひとつ違いの弟は
近所の同年齢くらいの子供たちと遊んでいました。弟が何かしでかしたのか、
近所の子たちは弟をいじめはじめました。私にも弟が悪いということは飲み込め
ていたのですが、なにせ10人くらいの子供が弟をいじめているのを見て兄として
何かしなければと思いました。そのとき私のとった行動はみんなにとっても自分に
とっても意外なものでした。私は何がなんだかわからずに急に大声で泣き出した
のです。何も悪いことをしていない私が泣き出したことで、ようやく騒ぎは収束しま
した。「○○ちゃんが泣いてるからもうやめようよ」ということにみんなの気持ちが
落ち着いたのでした。
いまでもそのときの切ない気持ちが当時のようによみがえってきます。
しかし、今考えると私には違った行動のしかたもとれたのではないかと思います。
いくら弟が無作法な振る舞いに及んだとしても、やはり大勢でいじめるのはよろし
くない。私はたとえ負けるとわかっていても、自分の腕力
でみんなを敵に回してもよかったのです。そのほうがすっ
きりしたのではないかと思います。不合理な行為への怒り
をもっとストレートに表現できたのではないかと思います。
しかし、私はいわば負け犬のやり方を真似て、しかも
みんなを打ち負かしたのです。それこそ弱さに
よる勝利です。
それ以来かどうかわかりませんが、私はこの年になるまでたびたびこの「弱さ
による支配」という姑息な手段をとってきたような気がします。
中学校1年生のときに新聞配達をしていたのですが、たびたび私は寝坊をしま
しました。そのたびに新聞配達店のご主人は私に文句を言い(当然ですが)
もう起きてこれないのだったら仕事をやめてくれといいました。私はそのたびに
ご主人の言葉を最後まで聞かずにただ平謝りに謝るだけでした。「すみません。
すみません」と何度も頭を下げた覚えがあります。しかし、これは、卑怯な手です。
いわゆる「土下座外交」という言葉があります。土下座という表現は江戸時代の
武士に対する尊敬の念を下々の身分の者があらわすように強制されたような意味
内容があるような印象を受けますが、同時にそこには弱き者の開き直りや隠れた
優越感も感じられます。土下座という語の中には土下座している者が表面は最大
限の自己卑下を表しながら、実際には卑下の表面の一枚裏にはなんともいえない
隠れているかもしれません。
けれども、今テーマとして取り上げている「弱さによる支配」はもっと巧妙で狡猾
な性格を持ちます。
親鳥が雛にえさである虫などを口移しでやっている映像を見たことがあります。
雛はいかにも庇護を受けるべく最大限弱さを表現します。からだをぶるぶる震わせ
て親鳥がえさを運んでくれなければ今にも死んでしまう、と言っているかのようです。
これは本能のなせる業ですが、人間も弱い立場を選んで、
逆に「弱さ」を武器に生きていく人もいます。
自分はだれよりも不幸だ。自分は無能だ。何もできない。
一人で生きていけない。自分は何をやってもだめな人間だ。
いつも運が悪い。誰も自分を愛してくれない。いつも
ひとりぼっちだ。誰がこんな自分を哀れんでくれるだろうか。
誰もいない。・・・・・・
こんなふうに言われるとたとえそう言われる人が幸せでなくても、何か悪いこと
をしたような気になるでしょう。何もしていないのに、そう言っている本人に対して
まるで加害者であるかのような気分にさせられてしまいます。
自分に悪いことをしたような気分にさせたり、相手を加害者の気持ちにすること
で、過度の自己卑下をする人は、相手に心理的な借りを創り出します。そのうえ、
過度の自己卑下をする人はさらに、罪悪感を抱いてしまった相手に対して理由な
き親切や心配の限りを尽くします。これは何のためでしょう。
ひとつには、自分はダメな奴だ、かわいそうな奴だと思わせることで相手に
罪悪感を抱かせ、もうひとつは、その罪悪感を抱かせた上に(本当は不必要な)
親切(らしさ)を付け加えることで、相手に現実の借りを抱かせたと確信させること
が目的なのです。この二段階の作用を通して、相手は自己卑下する人に「何か
お返しをしなくては」という気持ちを持つようになるのです。
ここで、自己卑下する人は、しめしめと思うわけです。つまり、こうして自己卑下
する人は相手に堂々と「依存」することが自他ともに許されるのです。
こうして、心理的に、経済的に、人間関係的に、相手を支配する道が開けて
いきます。
太宰治という作家がいました。『走れメロス』、『斜陽』や『人間失格』などで有名な
小説家です。その『人間失格』の中の「生まれてすみません」
という有名なくだりがあります。高校時代私もずいぶんこの本
を読み返し、「生まれてすみません」というのは私の合言葉
になりました。太宰治の生き方は東北の大地主の子供として
戦前の日本の封建社会で生きなくてならなかった人なので
われわれと単純に比較もできないし、単純に否定も肯定
もすることはできません。しかし、彼の中に
自己卑下へ耽溺する趣味があったような印象
は受けます。
今私たちの周りにいる「弱さによる支配」を得意とする人たちに共通した特徴と
いうのも、この自己卑下への「耽溺」があるのではないかと思います。
耽溺というのは、たとえばお酒やギャンブルに耽溺するというように、そこに
はまってしまうことです。いわゆるアディクションです。中毒です。
そういう意味で、弱さで相手を縛ろうとする人はよくも悪くも「無意識で」やって
いるのに違いありません。そしてその行為がその人にといって習い性となってしま
っており、それ以外の反応の仕方をとるのはきわめて困難であるといえるのでは
ないかと思います。
対人関係では常に明確に相手が自分の下でなければ、自分を卑下する習慣
が身についてしまっているのです。第三者から見ると、それゆえ、非常に権威主義
的な人間に見えますし、その当人も、他人を「自分より上か、自分より下か」の二者択一
のものさしでしか判断しません。
この二者択一は言い換えれば「自分にとって得か損か」で判断するわけです。
明確に自分より下の人間に対してはおうように構え、まるで王さまが家来に対する
ように非常に気前よく振舞います。そうすることで自分がさらに褒めてもらえるチャンス
をものにするのです。
その反対に自分よりはっきりと上の人間に対しては
まず気持ちが不安になります。
その不安の原因は、なんと言っても相手への「嫉妬」に
違いありません。しかし、本人には自分が相手に嫉妬して
いることをなるたけ意識しないように無意識の機制
が働きますので、そのために、よりスピーディーに
相手に対して卑下する態度を明確にするのです。
よく弱い犬が強い犬の前で寝転んで腹部をあらわにして降参のしるしを見せる
ように、このような人は自分より上だと認知したら即座に相手に対して過度に
卑屈な姿勢に出るのです。さっき述べたように、自分の「嫉妬心」を自分に隠す
ためであるし、同時に、自分の弱さを通して相手を油断させ同情させついには
自分のために奉仕するように仕向けるのです。
このような行動は常習的でほとんど中毒的な行動になっており、それを「耽溺」と
いう表現でさきほど言い表しました。
もっと厳密に言えば、「耽溺」しながらも、どのようにしたらもっとも効果的に
相手を自分の心理的支配下に置けるかの緻密な計算も行われています。
しかし、そういう冷静さというか自己中心的な欲望の達成への努力はしながらも
この行動それ自体から導き出されるのは、その人がますます自分を「現実に」
ダメな人間、無能な人間、不幸な人間にしていくということが大きな問題です。
つまり、自分がみじめな人間であればあるほど、その人にとって相手に信憑性を
持たせられるので都合がいいので、その人は「みじめな人間」に似るのではなく
まさに「みじめな人間」に、「落ちぶれた人間」にじっさいになっていく、しかも、
耽溺という表現があらわしているように、その人は別の反応の仕方を持ち合わせて
いないので、無意識に自分を本当にダメな人間に
していくのです。
こうして、自分の弱さを武器に相手や周囲の人間に
依存し、支配下に置き、安心して生きていけると思い込んで
いるのはつかの間で、実際には、支配下に置いた人々を
不幸に陥れる(自己卑下する人間に奉仕させることを
通して)と同時に、弱さで相手に勝ったと感じている
当人は最終的に行き着くところは、自分の言葉
通りに、自分の破滅なのです。
自分の弱さは武器にするのではなく、自分の弱さを直視し、自分の弱さを他人に
さらけださせることで、本当に人間的に成長できるのではないかと思います。
その意味で、先に書いた「嘘が常習となっている人」と共通している点が少なくない
のではないでしょうか。