チベット 死者の書A
チベットは、1949年以来の中国の侵略によって100万人以上が死亡し、ダライ=ラマをはじめ多くのチベット人がインド側に亡命しました。現在、ダライ=ラマはインド・中国の国境に近いダラムサラに居住しており、ここに亡命チベット政府の本拠地があります。チベットそのものは中国国内においてチベット自治区とされていますが、チベット人の自治は認められておらず、チベット人を上回る漢民族の移住政策と、地下資源の乱獲のため環境問題の悪化、さらにダライ=ラマの写真を所持しているだけで18歳未満でも逮捕投獄されるという絶望的な状況におかれています。また、ダライ=ラマは中国政府によっては悪人との扱いを受けています。
このようなチベットの政治的状況の中、チベット仏教の実践は半ば非合法化されていて、チベット仏教を信じることはまさに命がけの行為になっています。
さて、仏教はもともとインド北部に生まれた釈迦によってはじめられたのですが、その後のインドではアショカ・カニシカ両王のように仏教を保護した王もいたのですが、しだいにインドではヒンドゥー教が信じられるようになり、仏教の教えそのものはアジアの諸地域に伝播していきます。いわゆる北伝仏教・南伝仏教また上座部仏教・大乗仏教の違いもこの伝播の時期の事情によるもので、日本には主に大乗仏教が当時北魏であった中国、朝鮮半島の百済等を経由して渡来してくるのです。
しかし、もともとの完全な姿の仏教は、チベットにもっとも完璧な形で伝えられ保存されてきたといわれます。自己の悟りと衆生の救済、これらが切れ目なくひとつものとして、しかも具体的な修行の方法とともに、チベットでは保存発展されてきました。
釈迦と同じころ主にヴァイシャ(商人階級)に受け入れられたジャイナ教という宗教があり、今でも少数ですがインドに信者が存在するこの宗教では「バラの花に生まれ変わった自分を想像してみる」など魅力的なおしえもありますが、チベット仏教が根本的に他の宗教や他の仏教の宗派と違う点は、自分の死をまじめに受け止める点にあると思います。
『チベットの死者の書』にはそのようなまじめに受け止められた自分の死についてきわめて具体的な叙述があります。
たとえば、自分の死体のそばにいていまだ自分が本当に死んだということを自覚していないとき、死者の意識は自分の葬式を見ることになります。そして、そこでは親戚の者たちが自分のために手厚い葬式を行っているのを見て死者の意識はこれら親戚の者ら激しい怒りを覚えます。また財産を残して亡くなった場合、自分の死後にかつて自分の財産であったものを他人がかってに手にしているのをみて激しい執着を感じます。そして死者の意識は「悲しくなり、とても情けなくなる」のです。さらに死者の意識は心と身体が離れ離れになってしまっているので、「そのままじっと落ち着いていることができず」、「いささか寒くて心はいらいらし、皮膚は総毛だって、気持ちはそぞろに上の空で定まらない。」さらに「私は死んでしまっているのだ。私はどうしたらよいのであろう」と思い、「激しい苦悩」に襲われることになります。
これは『チベットの死者の書』においては死後の意識が体験するという内容なのですが、むしろ私たちはこのような思いを生きているときに何度も繰り返し経験するのではないか、それほどこの叙述は現実味を持っています。そして、死んだあとにはすべての問題が解決するというようなことはまったく期待させず、むしろ今生きているあいだに経験する苦悩がそのまま、いやそれ以上に先鋭化されて死後に経験しなければならないとすると、死ぬということは「すべてを水に洗い流す式」の問題の大団円につながるのではなく、むしろ、私たちの生き方そのものが凝縮された形で再度決定的な仕方で私たちの前に現れる、ということを教えているような気がします。
生前の「習癖を作る力(習気)」によって、死後の意識はそれ相応の意識からなる一種の「身体」を身にまとうことになるのですが、これはあくまいわばイメージからなる「身体」に過ぎず、同時に、死後の意識が出会うもろもろの怪物も、生前の貪りや怒りの生活から生じた煩悩の投影にすぎません。これらさまざまな怪物は実は意識が自分自身の姿を鏡で見ているに過ぎないのですが、貪りや怒りの感情で充満している意識にとってそれが自分自身であるということを悟れないので、ひたすら戦慄と恐れしか感じず逃げることしか考えません。衝動的に恐ろしいものたちから逃げようとするのですが、逃げれば逃げるほど死後の意識は解脱やよりよい再生の道から遠ざかり、悪趣と呼ばれるところの悪しき境遇に落ち込んでいくのです。
『チベットの死者の書』の最後のほうはもはや解脱のチャンスを失い、それでもよりましな再生の道へ導くための詞章が記されています。そのなかで、恐れのあまり葉っぱや地上のへこみに隠れ続けている死後の意識ほど、ひどい悪趣に陥ることはないと述べている部分があります。つまり、恐怖のためにあわてふためくことは禁物ですが、それ以上に悪いことは何もしないということを示しています。
どんなに恐ろしくていやなものでも、それが自分の意識の投影であり、この投影されたものを直視できたときにはじめて死後の意識は解放の道を歩み始めることができるというのです。
私たちはふつう「死」というものを日常の生活と切り離してみようとする態度に慣れ親しんでいますが、『チベットの死者の書』においては、「死」はそのまま「生」の延長である以上に、今ここにいる自分が陥っているジレンマそのものが強烈な形で再体験されると同時に決定的にこのジレンマから解放されるチャンスとして描かれています。