チベット 死者の書
『チベット死者の書』という本があります。以前は、エジプトの『死者の書』と混同するほどこの本について無知でしたし、チベットというとその場所さえ、ヒマラヤ山麓にあるのか、ヒマラヤの南北のどちらにあるのかさえあいまいで、独立した国なのかそれとも一地方に過ぎないのかも知りませんでした。また、チベット仏教についてもそれが真性の仏教ではなく、民間宗教と混交した苔むした伝統の宗教というふうにしか考えていませんでした。
今回、『チベットの死者の書』(筑摩書房)という本をはじめて読み通して、その内容に間近かに触れることができました。
この本はもともとはチベットで人が亡くなったとき、その枕元で四十九日間にわたって死者に読み聞かせる実用的な宗教書です。四十九日というのは、死後それだけの日数が経過しても、魂が最大四十九日はこの世をさまようからだという宗教的信念に基づいています。しかも、死者に向かって読み聞かせるのですが、それは死者が聞く能力を保持しているということを前提としています。
何よりもこの本はその生々しさに驚かされます。
われわれはとかく自分の死を恐れ、できることなら自分の死について考えないか、己の死という考えから遠ざかるためにほかのものに没頭したがります。
自分の死ではなく他人の死については儀礼的な感想だけ抱き、それが自分の死の考えと直結しないような心理的メカニズムを働かせることは、ハイデガーが『存在と時間』の中でトルストイの『イヴァン=イリッチの死』に言及した箇所で述べています。
もしくは、自分の身体の調子が悪いことや自分の病気については気に病むことが、自分の死について考えることの妨げになっているとジャンケレビッチはその著『死』の中で述べています。
『チベットの死者の書』の中には、以上のような思想家や哲学者の概念的な思考とは別世界のリアルな死が取り扱われています。それはまさしく自分の死です。しかも、叙述は、たった今死んだところから始まるのであって、これから死を迎える人間の死に対する不安や恐れお叙述ではないのです。
肉体が生物学的な死を迎えてもなお意識は身体のもとにとどまるといいます。そして、肉体の生物学的な死から、意識が解脱もしくは再生への道を歩むまでの最大四十九日間をバルドゥ(中有)といいます。そしてこの本の中にはバルドゥにあって意識が横道や迷路の中へ迷い込まないような導きが記されています。死者の導きの書なのです。
死者はまず自分は死んだということを認識できない。そして自分の死体の周囲で悲しんでいる親族や知人に話しかけても死者の声が届かない。さらに、バルドゥにある意識は数千キロの距離も一瞬に移動でき、あちこちかつての親しい人々に会いに行ってもだれも自分を認識するものがいないのではじめて悲嘆に暮れるといいます。
このような途方に暮れ取り乱した状態の中で、生前修行を積んできた人は、行くべき道は知っているので、『チベットの死者の書』を読み聞かせられたら即座にどの道を行けばよいか判断できます。初期にこの正しい判断を下せる意識は輪廻の苦しみから解脱できるわけです。
しかし、おおかたの意識は自分の目前に現れる幻影に恐れおののき、それが自分の生前の悪い行いの結果、自分が積み重ねてきた意識の投影に過ぎないことを悟ることができません。
日を重ねるごとに、死者の意識の前に現れる幻影(実は死者の意識の投影に過ぎないもの)はそのおどろおどろしさを強めていきます。人体に喰らいついている獣の頭をした人物や身体に骸骨のアクセサリーを着け杯で血液を飲み干している者などが大勢出現するようになります。
つまり、死者の意識が逃げれば逃げるほど、自分の目前に現れる化生の者はいっそうものすごくなるので、なおさら死者の意識はこれから何とかして逃げたいと願うようになるのです。こうして、解脱の道は遠ざかっていくのです。
『チベットの死者の書』では、この化け物があなた自身であることを認めよと繰り返し諭します。そして、死者の意識がなすべきことはただそれが自分自身であると認めることだけなのです。それができたとき、母と子が出会うように、目前の化け物のような神々と死者の意識が一点で交わり、解脱への道が開けることになるのです。
『チベットの死者の書』は人が生前に積み重ねてきた悪しき習慣の力が死後も意識の足手まといになって、まさにこの悪しき生前の習慣の力によって、死者の意識の目前に現れる妖怪や怪物めいた神々の姿を恐れおののくのだといっています。
実はこれらのものすごい異形の神々は死者の意識の影の投影に過ぎず、しかもそれが自分自身であるということを直視できさえすれば、死者の意識は解放されるのに、死者の意識はあくまで拒否する態度を改めないのです。
『チベットの死者の書』に描かれている四十九日間にわたる死者の意識の遍歴は、チベット仏教という伝統の中で生まれた神々が現れ、人類の文化という広い視点から見ると非常にローカルで特殊な事柄のはずなのですが、読み進めるにしたがって、それ自体実際に自分の死後にそのまま繰り広げられるようなそれほどリアルな印象を与えます。
チベット仏教では輪廻というものの存在を認め、死の直後が私たち人間にとってどれほど重要かを説きます。そして、死の直後に死者の意識が正しい判断を下すためには、生きているあいだにできるだけ死の直後に出会うさまざまな混乱をシミュレーションし修行する必要があるのです。
修行とは、死で完成するのではなく、死から始まるあることのための準備なのです。
ですから、宗教を認めない人にとっても、死がすべての終わりになるということもないのです。
宗教を信じる人、信じない人、さまざまですが、これまでは死がひとつの終わりもしくは完成とみなされていたように思えます。しかし、私はこの『チベットの死者の書』を読み、チベット仏教の一端に触れることで、死が点ではなく過程(プロセス)であること、しかも、今生きている自分の意識とそう変わらない意識のプロセスであることを知りました(チベット仏教の立場に立つなら)。
死それ自体は自然なことで、むしろ重要なのは、死の直後に私たちが直面することになる過程であり、チベット仏教ではこの死の直後にやってくるプロセスを非常に重視しています。
死後の世界というと非常にスピリチュアルな印象を与えますが、チベット仏教では非常に現実的で毎日の努力を必要とするのです。