多重人格について
世に有名な「多重人格」の症状については、『24人のビリー・ミリガン』のようにきわめて典型的なものがあります。しかも、人格の一人一人に名前までついており、一人の人格が目覚めているときは他の人格が眠っていたり、とくに主人格である「私」の知らぬ間に、「私」の生活をめちゃくちゃに破壊したりもします。典型的ではあるのですが、同時に、きわめて稀な例で、われわれの生活にとっては無縁のフィクションのようにさえ思えます。
多重人格は解離性人格障害と呼ばれるほうが多く、ここでの「解離性」といのは、意識の「解離」でお互いに離れ離れになってしまい、「統合」が取れなくなってしまうことを指します。たとえ、ひとつひとつの人格に名前がなく、完全に独立した活動をしていなくても、ひとつの意識の中で、いくつかの合異なる価値観をもち、行動の基準も道徳の水準も知的な能力の面でも格段の差が認められる「人格」というか「意識の断片」が、他の意識の活動をおさえてある程度まで「勝手な」行動をとることは割合普通にあるのではないでしょうか。たとえば、仕事でがまんしたりなんらかのストレスをいつもより感じている日の帰宅途中に買い物にはまって、いつもなら大して執着もしない商品に対して異常ともいえるくらいの幸福感を感じ、お金を使ってしまうことや、別に自分を飾る必要もなく自分のほうが上だなどと威張る必要もない相手なのに、つい自分の経験や自分の能力の自慢をしてしまったり、真剣に話に耳を傾けるべきときなのにどうしようもない眠気に襲われたり、頭の中がブーンと騒音がしているように感じて、相手の言っていることが聞こえなくなったり、たいへんな劣等感の持ち主と面と向かうときに突如として自分でもコントロールできないような残虐で凶暴な快感がわきあがってきたり、あげればきりのないくらいさまざまな例があると思います。
特に、買い物依存や借金依存など、お金にまつわる欲望に負けて衝動的になっているときは、ほとんど理性的な自分は「そこにはいない」ような気がします。消費行動をしていて快感を感じている自分は本当に小さな存在で、その消費行動に衝動的にさらっていく別の人格がいるような気がします。
サンテグジュペリの『星の王子様』に出てくる或る星で王子様は酔っ払いと対話します。なぜ飲むのかという王子様の質問に「飲んでいる自分を忘れるために飲むんだ」と答える酔っ払いのおやじの返答が印象的でした。お金に対する執着というか中毒と同様根深いのはアルコールに対する中毒だといわれます。そして精神科の医師はアルコール中毒の患者の大部分が借金や買い物依存などお金にまつわる中毒症に罹っていると言っています。
つまり、お金への依存とアルコール依存は同じ原因による確率が高いというわけです。
ところで、買い物に依存しているときの「自分」は、まさに買いたいものを目の前にして(それが店内で実際に品物を手にとっていようと、インターネットショッピングやネットオークションであれどちらでもかまいません)「快感」を感じると同時に、品物を選んでレジに持っていきまさに買う瞬間やネットショッピングでクリックする瞬間にさらに大きな快感を感じます。細かく見ていくなら、すでにお金を払う瞬間の快感には苦痛が混じっています。それはお金を支払うという行為が自分を犠牲にする、つまり自分の財産の一部を削り、と同時に、売買という社会的な契約行為に則った行動の枠内に自分がおりそれだけに空想の世界にもはや遊ぶことができず、現実にしっかり足をつけた社会的人間に戻っていることが苦痛を呼び起こすのではないでしょうか。
そして、品物を買うという行為が終わり紙袋に入れられた品物を受け取ったり、ネットショッピングで注文の品物が「現実に」届いたりすると、完全に夢の世界から現実の世界に戻ってくることになり、そのときの自分の意識はもはや買い物に「はまって」いるときの自分ではなくなっています。
そのときに思うのは決まって「なぜこんなものを買ってしまったのだろう」「こんなものいらなかったのに」「支払いをどうしよう」などです。さらには、そんな買い物をしてしまった自分のふがいなさへのやりきれなさやそのやりきれなさを解消できないために、その怒りやストレスを身近な人に向けたり人のせいにしたりするかもしれません。
しかし、買い物をしたときの天にも昇るような快感を忘れられず、だいたいそのとき「マイブーム」になっている商品などのカタログを見てもう一度快感を掻き立てます。この品物があればどれだけ幸せだろうと自動的に空想が前進していくのです。特に、自分の現在の経済力ではとても手が届かないものが快感のターゲットになりやすいといえます。しかし、あまりにも自分の生活の現実からかけ離れたぜいたく品には手を出すことはあまりないかもしれません。自分の現在の生活との距離が重要なのかもしれません。
また、前回の買い物をしたあとの空虚感・むなしさの穴埋めをすることも重要になります。
どうしても快感が商品に所属しているように感じてしまい、それを自分の意識ではいかんともしがたいのですが、快感は感じる意識のほうにあり、買い物をしているその刹那にしか感じられない、ということも理論的には理解できても、買い物依存症に陥った場合、「快感は商品の中に」あるというものの見方から抜けられなくなります。
こうして人は、ますます買い物依存、同時に、借金依存に陥っていくのですが、この依存が深まれば深まるほど「快感」より少なくなり、「苦痛」だけがより増していきます。本当に不思議なのですが、買い物の行為そのもの、借金を重ねる行為が混じりけない「苦痛」だけになっていけばいくほど、人はその中毒の行動から抜けられなくなります。そして、まるで「自分でない誰かが」買い物や借金をしているように感じます。たとえば、キャッシュディスペンサーでそれほど必要でないのに1万円札を引き出す自分を無力に眺めている正気の自分が感じられたりします。
自分がお酒におぼれているという危機感を持つ前に十分お酒依存症になっていることが多いかもしれません。なぜなら、お酒を飲んで忘れたいことがあるからお酒に依存してしまうのですが、だいたいお金に対する依存や借金、借金している自分自身、これらを忘れるためにお酒に頼るからです。お金と同じように、お酒も現実の自分を忘れさせて、空想上のかっこいい自分をイメージさせてくれます。お酒で現実の自分、借金まみれの自分、社会的に劣等感を感じている自分、年齢相応の経済力のない自分、ただうらみ節しか出てこない不満だらけの自分、何の将来性も希望も感じられない自分、こういったものをすべて、たとえ短い時間であろうと、お酒は忘れさせてくれるだけでなく、強気のヒーローになって幸せいっぱい、愛情いっぱいの自分を置き換えて提示してくれる、体験させてくれるのです。いわば麻薬と同じで、お酒に酔っている間は幸福感に満ちた空想の世界に遊ぶことができます。
そして翌朝酔いが醒めたときには、まずは幻滅と自分への嫌悪感と、さらに時間が経つと再びお酒への欲求などを感じることになり、結局、お酒を中心に生活が回転していくことになります。
お金、お酒以外にわれわれに大きな支配力を及ぼすものに、名声があります。褒められたい、人から「すごい人だ」といわれたい欲求です。これは借金やアル中ほど自覚されないかもしれませんが、借金・アル中になる以前からわれわれの心の中にある大きな執着ではないかと最近思います。
人が仕事をするとき、その動機は給料であったり、その仕事から得られる充実感であったり社会に役立っている感覚であったりしますが、もうひとつ、その仕事を通して人から認められたいという意識も小さなものではないかもしれません。人から認められたいという意識が正当な動機になるためには、それ相当の努力を傾けることが必要です。それだけの努力をしたのだから、人からの評価もその努力に見合ったものになります。しかし、ここがもしかしたら分かれ道かもしれません。というのは、正当な努力を払って評価を得るのではなく、何が何でも評価が得られればよいというインチキに走るようになるからです。
つまり、「無意識に」自分が立派に見られるように、能力がある人のように、優れた人であるかのように、人並み以上に愛情深い人であるかのように「見せかける」ことが唯一の目的になっていくからです。
ここはやはり「無意識に」褒められたい、名声を得たい欲求のメカニズムが作動しているので、そのためには「無意識のうちに」「手段を選ばず」自分の名声をより大きくしようという意識が働いていきます。しかし、あくまで無意識のメカニズムですから、意識の上では自分よい人間でありたいし、善良な人間のはずだという意識を堅持しなくてはなりません。しかしやっている行為は人の揚げ足取りやスタンドプレーばかりで自分のために他人を犠牲にすることばかりです。こうして人は「偽善者」に仕上がっていくわけですが、自分で意識していない分、自分がそんな卑劣な行為をしているなんて思いもよりません。そのうえ、自分の行動の結果、自分の周囲の人がよそよそしくなり自分から離れていったりさらには敵意をあらわにする人も出てきたりすると、理由がわからないものですから、それを自分から離れていく他人や世間のせいにしたくなりがちです。そして、善良でありたいという単なる空想上の自分と卑劣極まりない現実の自分の乖離によって、ついには会社のなかで立場をなくしたり社会的経済的な没落を招くことになり、これまた理由がわからないので「絶望」という逃避行動をとるようになります。
買い物に依存しカード破産にいたるほど借金まみれになったり、かっこいい自分を空想する時間に浸るためにお酒に頼ったりする根底には、この他人から褒められたい、評価されたい、名声を得たいという欲望があるように思えます。
お金への依存、お酒への依存、名声への依存。これら三つの依存や欲求は、そうありたい自分と現実の自分という自分のイメージを見事に分断します。そして、ただ分断するだけでなく、お金やお酒に依存しているときの自分、かっこいい自分、みじめな自分、自力でどうしようもなくなっている自分、他人への不満だけの自分、社会のトップで輝いている自分、廃人の自分、と無数の数多くの自分に分断させ、どれかひとつに統合しきちんと責任能力のある自分をますます弱くさせていきます。そして、統合する自分の中心がきわめて弱くなっているので、そのときそのときで表明に現れる自分の意識がばらばらでひとつの意識と別の意識の連続性や因果関係がしだいに薄れていきます。たとえば、現時点での生活の欠点をすべて改善して新たな生活へと決意したかと思うと、次の瞬間にはものすごく自己中心的で幼稚な意識で人への怨みや怒りの感情に捉えられて身動きできなくなるなどです。
より上位の意識によって自分の心を観察したり子のトロールしたりすることができなくなります。あるのはざっくばらんにそのときそのときの気まぐれな意識や欲求だけになって、ひとつの瞬間にひとつの意識で心が充満してしまうので、自分が他の者になれる、別の自分になれるという可能性や意識の自由が喪失されていきます。
つまり、子供っぽい恨みがましい自分でいるときはひたすらその自分でいるしかなくなります。生活に絶望している意識のときは自発的な努力への道が一切ないように感じられます。こうして、そのときそのときに交互に現れる気分や意識の奴隷になってしまうのです。
お酒や借金に頼ったり、自分の努力の結果ではないインチキな名声の獲得なども、結局は、さまざまな意識の交代に支配されるままになっている自分が唯一幸福を。感じられる最期の手段なのかもしれません。
自分の行動だけでなく、横たわってぼんやりしているときに、心の中で「自分ほど偉い人間はいない」などと独り言をつぶやいていることに気づいたらさらに愕然とするかもしれません。というのは、アル中・借金で落ちぶれ生活は破壊されても、少なくとも心の自由だけは確保しているつもりでいたからです。こうなったらまるごと自分自身が「病んで」いることになります。しかも、心の中でつぶやいている自分の声さえもはや本心を語らず、嘘偽りしか語れないとしたら・・・・・・。
自分がよくなりたいという欲求さえ失ってしまい、それでもなんとかなりたい、なんとかしたい気持ちの片鱗はあるそのとき。
キリスト教の古代ギリシアの教父にニュッサのグレゴリウスという人がいます。「人は自分の人生の選択を為すが、そのとき選択する自分は将来の自分の父である」と言っています。また、仏教では長年のカルマ(行為)によって成長した性質のことを習気(じっけ)と呼んで、これを除くには長い間、その欲望に対抗する生活をしなければならないとされます。
まずはこんがらがった意識のもつれを自分自身の眼で見極めることは必要ではないかと思います。
2011.6.10.