プライドについて
プライドという言葉は日本語ではどちらかというと否定的な意味に取られがちです。原語の英語では、prideという語は日本語ほど否定的な意味内容で必ずしも使われないようです。ただし『高慢と偏見』というジェーン=オースティンの小説の原題はpride and prejudiceですからやっぱり否定的なのかなと思ったりしますが。
外来語として日本語になってしまったプライドは「俺の沽券にかかわる」というような「沽券」や「面子」に似た意味でも使われるでしょうし、純粋に自我の高揚感や高貴さを主張する意味で使用される場合も多いです。
否定的な意味でのプライドが高すぎる人の場合、幼い時に愛情そのものよりも間接的に何か別の目的を代償として愛情を与えられた人が少なくないような気がしますし、また単純に過保護・過干渉で育った人にも多いのかもしれません。ちやほやされて育つとどうしてもプライドは高くなるでしょう。この意味で長男・長女というのはプライドの塊になりやすいかもしれません。
自分の本質に核心のようなものを欠いて、プライドだけ肥大化すると、人生の目的がこのプライドを満足させることにのみ集中する場合があります。プライドを満足させる業績なり仕事なりの成果が実質的であればあまり問題ではないのですが、正当な努力なしに、時によっては、卑怯な手段に訴えてまで、自分のプライドを満足させようとすると、しまいには、自分の努力ではないのですから、借金や他人の仕事の盗みなど何でもやりかねません。
どこかの精神科のお医者さんがおっしゃっていましたが、借金を繰り返す人には「かっこつけ」が多いということでした。かっこつけというのは、服装や車やその他の持ち物で自分をいつも華麗に着飾っていたい人ということです。そのことだけのために借金を繰り返すのです。
自分の経済力の限界を、プライドを満足させたいという欲求は守ってくれませんから、どうしても、借金や不義理を繰り返すようになります。
こうして、小中学生の頃はおとなしくて親類からも「いい子ね」と賞賛されていた子供は、社会人になっても自己のプライドを満たすためにあらゆる手段に訴えていくうちに、社会人として失格しついには廃人への道をまっしぐらに進んでいくのです。
プライドとは、もともと自分の中に自己のアイデンティティを欠いたまま、自己を飾ろうとするのですから、底なしの穴を満たそうとするようなものです。
前にも書いたかもしれませんが『千と千尋の神かくし』の中に登場する「顔なし」のようなもので、いつも寒い、さびしいと言いながら、千の満足するものをとにかく与えたいために、なにもかも飲み込んでしまいます。噛むことをしらないので、飲み込んでも自己同一性の糧にされることは決してないのです。
プライドは、もともとは親の好意を獲得するために親の期待にしたがって行動することで満足させられていました。大人になっても、プライドを満足させるのは、自分を満足させるのではなくて、他人を満足させることで自分が満足するという屈折した形での満足です。他人を満足させるというのはおかしな表現ですが、たとえば、かっこいい服を着て他人がそれを見て「すごい」「すばらしい」と言う。それを聞いてプライドが満足させられるのです。地球上に一人しかいない場合にプライドなどもっても意味がないのです。
プライドは、他人指向型の感情なのです。ですから、前提とする他人を経由しないと決して自分を満足させられません。非常に社会的な感情なのですが、しかし、このプライドを満足させるために非社会的なあるいは反社会的な行動をとってしまいます。
プライドも度が過ぎれば、病的になり、ついには精神病の一形態になってしまいます。
プライドの中の自己像と、人から見た自分のイメージに懸隔がありすぎると、もはや正常な現実認識ができなくなります。日常生活に困難を感じ始めるのです。
それだけでなく、自分の自我やアイデンティティがなかったり脆弱だったりしてむやみとプライドばかりでかいと、その人は自分へと帰る道を見出すのがとても難しくなります。