スピリチュアル系のカウンセリングの危険性について
〜私自身の経験より〜
私自身が以前通っていたカウンセリングで受けた様々な後遺症について、ある時まとめてみた文章です。
自分のための覚書として書いたものなので、意味のよく通らないところもありますし、全体としてそこのカウンセラーへの一方的非難になっていないか心配ですが、私自身がそういうカウンセラーを選んだということは、無意識のうちで私自身が自分の行為を正当化し強化するためにそこに足しげく通ったのですから、身から出た錆と申してもしょうがないかもしれません。
しかし、同時に、以下の文章には、スピリチュアル系のカウンセラーの一般的傾向が示されているかもしれないので、少しは警告するという意味で人の役に立つかもしれないので、掲載することにしました。
将来や他人や仕事のことを「考えなくなった」
以前は、たとえば学校の仕事で何かの行事を企画したりあるいは生徒がトラブルを起こしたりしたときには、実際に「行動」しなくても、四六時中その行事なり生徒なりについて考え「心配」していたものだが、最近はクラスに行っても、その瞬間にまずい状態と感じても、次の瞬間にはそれについて「心配」することがなくなっている。と同時に、未来や将来に向けて何かの企画を実現していこうという意欲がほとんどゼロになってしまった。昔は学年やクラスの行事など、あれこれ思いあぐねたものなのに、そして、最善の方法や最悪の事態をいつも「想定」して、そのどれにも対処できるよう本当に四六時中、考えていた。それによって少々ノイローゼ気味になっていたとしても、ノイローゼの中身の「罪悪感」はまだ現実の「罪悪感」で、その罪悪感をバネにして、よりよい自分をへと努力しようという道徳の感情が残っていた。自分は何をしなければならないかをいつも考えていたし、単なる効果や自分の得だけを考えるのではなく、倫理的に何が正しいのか、社会通念で何か正当なのかをいつもいつも究明する姿勢は一貫していたと思う。もちろん、ときどき、そういうのに疲れてだらしなくなるときが断続的に訪れるのだが、そういうだらしなさが溜まってしまうと「必ず」何とかしなければ、この情況を「精算」しなくては、という道徳的な義務感で自分の現在の殻をやぶろうと努力していたと思う。
スピリチュアルのカウセリングに行ってからは、やっぱり第一に、今自分の心の状態や周りの人々からの圧迫なりそこから受ける嫌な感情などをまず「心理学的に」(実際に似非心理学的なものなのだが)解釈することで、その嫌な情況を、自分の心の情況と、他人の情況に、完全に分断し隔離したうえで、自分の心の情況に対しては「罪悪感を感じるのはよくないことだ」という刷り込みと「あえて幸福になろうとしない自分の存在」を指摘して、悪いのは自分ではないということへと洗脳されていったと思う。つまり道徳観念がだんだん粉砕されて自分の中のエゴイストが成長していったと思う。
これに対して、他人の情況に対しては、それはあくまで自分とは無関係な他人から見た経験で、自分自身はたんなる「きっかけ」にすぎず、それゆえ、その他人の情況にいっさいの責任をもつ必要はないし、もつこと自体が誤りであるとされた。そして、自分との関係でその他人が非常な不幸に陥ったり、あるいは、自分を攻撃したとしても、それはあくまで他人の「学び」なので、自分自身はその人とは無関係な場所に居続けて、一切その人の感情なり心の痛手に責任はないとされた。
そういうふうに、スピリチュアルカウンセリングのところでは、問題とされるのは唯一自分自身が気持ちいいかどうかがすべてなので、他人や社会や仕事といったいっさいの関係をもつものとの交渉は無意味だと刷り込まれていった。
さらに、それだけでなく、そのカウンセラーが自分の家族に感じている憎しみをクライアントである私自身のほうに転移された感がある。
たとえば、悪いのは女であり妻であり母親である、というふうに、私の心のトラブルはすべて家内のせいにされた。それだけではない。そのカウンセラーが本来感じている憎しみを表現できないぶん、私にその憎しみなり復讐なりの感情を私の家内にむけさせた、ということも本当だと思う。
映画で催眠術で無関係な人を殺し屋に仕立てるという場面があったが、このカウンセラーがやったのは、もともと私が家内のせいにしやすく、家内から搾取したり依存したりしていたベースの上に、完璧な「殺し屋」を創造したものだと言える。
それだけでなく、このカウンセラーがやったことは、私自身、つまりクライアント自身が自分自身を攻撃したり自滅させたりするように仕向けたことも、事実ではないかと思う。
とくに、私は自分自身が学校を突然退職したことや、カウンセリングルームを開いてお客が来ても自信がなかったり、就職活動をしていても、履歴書を書く手が止まったり、汚い字になったり、本当はもっとやったことや書くべきキャリアがあるのに、そのことをわざと書かなかったり、書類審査で合格してやっとのことで面接まで漕ぎ着けたのに、わざと受けのうくない格好で行ったり、とにかく自分が社会の中で通用するような能力を発揮する方向に行こうとすると、ものすごい力のブレーキがかかってしまい、ウラハラのことをしてしまう。
このカウンセラーに洗脳されただけでなく、自分自身がどこかこのカウンセラーに同一化してしまった感じがする。
感覚を取り戻さなくては、ということをカウンセリングルームでよく言われたが、そのために、本も読む必要なないどころか害になるということでずいぶん捨てたが、今考えると、あそこでは、感覚や感情の門をすべて閉じる方向に行ったのではないか。
そして、自分の心の中の憎しみや復讐心がいつも暴れまわれるように、自分自身がいつも自分の脳の位置にいないような気がする。一種の「離人症」。
このいつも自分がここにいないような気がする「離人感」は、その間隔がずいぶんながくなって、いつも自分がいない状態にまで今なっているような気がする。
そしてはっと気づいたときには自分がその間に何を考え何をしていたか全く忘れている。
自分の中で未だこのカウンセラーが活動しているような感じがする。
そして傲慢な態度で人を見下していることで、自分自身の心の平衡を保っているような気がする。
以上が、以前考えたことです。この文章はスピリチュアル系カウンセラーのところに通わなくなってもう数年経ってから書いたものですが、不思議なことにというか恐るべき事にその後遺症は時間が経過すればするほど骨の髄まで染みこんでいたことに気付かざるをえなくなります。
よく著名なスピリチュアルカウンセラーが「〜すれば楽になる」とか「〜すれば幸せになる」と述べている本を書店の店頭に見かけますし、それがたいていベストセラーになっていることも知っていますが、その背後に横たわっている哲学で生きると人生はとんでもない破壊を招くことはあまり知られていません。なぜなら、この哲学は基本的に現実逃避の態度を基礎としているからです。
その昔、隠れて生きよと説いたエピクロス学派のように、苦しみを味わいたくないなら、人生の荒波から避難することで苦しみそのものを無しにし、と同時に生きている感覚も麻痺させていったあの生き方と同じです。
苦労して手に入ることをまるで手品のように何の苦労もなく何の代償も求められずに手に入れられるというのは実際魅力的ではあります。しかし、普通そんな安易なトリックや詐欺に引っかからない人でも、人生のある時期にぶつかり、まして本人の中の長年の解消されない不満が加勢すれば、スピリチュアルの甘言が心に忍びこむ隙間ができてしまうのです。
基本的に、スピリチュアル系のカウンセリングや思考法や人生の態度は、どんなに宇宙的な博愛精神にみちみちているように見えても、結局はそれ自体究極のエゴイズムの姿ですから、他人と自分への究極の破壊力を行使することになります。