「隠れ多重人格」について
子供の頃よく足のうらに魚の目が出来ました。魚の目は出来始めると次第に輪郭がはっきりしてきます。いまではそのときの痛みは憶えていませんが、確か歩くときには痛みで支障をきたしてように思います。
魚の目が成長すると輪郭がはっきりするのですが、輪郭がはっきりしてくると今度は治癒に向かっていうrことがわかります。若干セメダインのような匂いのする塗り薬を付けて一週間くらいすると、中の芯まで指先で繰り抜くことができてようやく完治しました。
以前『多重人格』というパトナムというアメリカの精神医学者の分厚い学術書を熱心に読んだことがあります(岩崎学術出版社)。
その当時どうして自分は自分にかかわりのない多重人格についての本をこんなに熱心に読むのだろうとわれながら不思議に感じたことを思い出します。
その本の中には多重人格の詳細な定義から浩瀚な症例にいたるまで記されていました。
ドストエフスキーには『二重人格』という作品がありますし、スティーブンソンの『ジキルとハイド』は多重人格の人間の典型を描いています。また、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』という作品はアル中患者の主人公が愛猫の黒猫を絞殺する痛ましいくだりを思い起こさせます。
自分の幼い頃の満たされなかった様々な欲求に気づくことは大切ですが、そればかり強調すると、こころの中でこの四、五歳ころの「私」があまりにも大きくなりすぎて、それまでバランスをとっていた他の人格との関係が破綻する場合があります。いわゆる「インナーチャイルド・ワーク」はこのような「私」の中の「子供の自分」の気持ちに共感したりされたりすることで「癒し」を求めるひとつの方法ですが、それで事足りる人ももちろんいるかもしれませんが、「隠れ多重人格」タイプの人には逆に百害あって一利無しの結果に終わることが少なくありません。
というのは、問題は、インナーチャイルドの声に耳を傾けることではなくして、むしろ、大人の意識でもってこころの中の諸人格を統合していくことのほうにあるのですから。インナーチャイルドワークは、中年によく起こる意識の拡散を統合するどころか、むしろ拡散を強め、さらには諸人格間の紐帯を切り離してしまうところまでやってしまう危険性を秘めています。
諸人格間の紐帯が断ち切られると、いわゆる「隠れ多重人格」の意識に陥ります。それは子供の自分の欲求を無条件に100%満たそうとする行動につながります。こうして生活の破綻が始まり、中年期の意識の拡散が統合へ向かう課題から遠ざかることになるのです。
こころの中の「子供の人格」そのものは解放されたと喜んでいるように思えますが、実際にはその他の理性的な意識や大人の意識など他の諸人格はこの子供の意識の奴隷になってしまい、子供の意識ですから、方向性もポリシーもなく、暗闇の中を盲滅法に破滅へと突き進むことになるのです。
子供の意識は解放されていても、その子供の意識を包みこんでいるこころそのものが互いに関連なく分断されてしまっているので、そのときそのときの相手や状況で自分の意識の前面に出現し現実に対応する人格がバラバラなので、基本的に生理的な反応しかできなくなります。
こうして、こころそのものは自由どころか、状況に左右される袋小路の中から永久に出られなくなるのです。
大切なのは、あの魚の目が完治したように、根っこからまるごとでないと、このこころの状態は改善されないだろうと予想がつきます。そのためにはいたずらに多幸感を煽るような方法ではなく、長く苦しい地道な努力しかないのでしょう。