「未来」の観念について
「未来」というと「将来」という言葉よりも時間的のさらに先のことに感じられると同時に経済的なことや生活面のことではなくむしろ豊富や期待や待望という気持ちを込めた言葉のように感じるのは私だけでしょうか。というのは「将来」という言葉では、「将来設計」とか「君の将来は」というようにどちらかというと実際的な事柄に関する先の話のときに使用することが多くて、「未来」というと「明るい未来」とか「人類の未来」や「近未来」のようにどちらかと言えばSF的で時間的には現在生きている人々の次の世代の人々には関わりはあるけれども、現在の世代の人々には責任もなければその恩恵に与ることもない時間的な別世界をさしていうことが多いように思えると同時に、例えばエネルギーに充ち溢れている青年期の人には存在するかもしれないが中年以降の人々にはもはや自分らには関わりない特権のような概念のようにも感じます。
それでは「未来」というのは時間的にいつから先を指すのか。「今」というのが現在のこの瞬間だとすれば、未来はいつも先にあることになり、「今」はいつまでも「未来」に追いつかないことになります。「今」は常に「未来」というビスケットをかじりつつ「今」になっているわけですから決して「未来」にとってかわることはできません。昔子供のころ山登りをしていると山道を登っている私の前方2,3メートルのところにカミキリムシの小型版のような虫が先へ先へと私が近づくたびに飛んでいきどこかに行ってしまうわけではないのですが常にすぐ間近にいました。「未来」も「今」にとってこのハンミョウという虫と同じようにいつも「今」のすぐ前方にいるわけですが「今」は決して「未来」に追いつけないのです。
それで、「今」にとって「未来」というのはいつからを指すのでしょうか。
人によっては10年先が「未来」かもしれませんし、タイムカプセルを埋めてそれを掘り返す30年後が未来かもしれませんし、孫が成長する時代を「未来」と名指す人もいるかもしれません。『鉄腕アトム』のような漠然とした超近代を「未来」と呼ぶかもしれません。
ここで質問なのですが、あなたはこのような「未来」のうちどのくらい先の時間までを自発的かつ具体的にイメージできるでしょうか。
明日あさってくらいでしょうか。それとも今週と来週くらいでしょうか。今月のことをことを考えるのがやっとだという人もいるかもしれません。中には今日のことでせいいっぱいだ。いやそれ以上に「自分には今しかない」という人もいるかもしれません。もっと若い人なら、「今年のクリスマスには」とか「来年の4月ころには」などけっこう先のことで抱負をいだける人がいるかもしれませんし、「よーし見てろ5年後にはこいつを見返してやるから」など自分の目標をさらに遠くに設定できる人もいるかもしれません。心理的には、そういう「未来」に対する私たちの態度は受身の場合か積極的で主体的な場合とふたつあるような気がします。受身というのは「期待」と同じように自分の努力がひたすら「待つ」ことにある場合で自分のそれ以外の努力に依存しない場合です。これに対して積極的な態度の場合ひたすら自分自身の努力がその「未来」の到来の実現を左右する場合で、このような「未来」というのは「可能性」と言い換えてもよいくらいです。
「過去」というのはすでに過ぎ去ったことですからある意味ここに現にあったもの(今はないかもしれない)を指します。これに対して「未来」というのは未だ来てないものを指しますからそれは未だ現にないものではありますが可能性として「ある」ものということになるので、「未来」=「可能性」と考えてもよいでしょう。
このような「可能性」としての「未来」を私たちはどのくらい我々自身のうちにもっているでしょうか。「未来」というのがイコール「可能性」であるとしたら、年をとればとるほど「可能性」としての「未来」は我々のてから抜け落ちていって、あるのは「過去」とこの限りなく瞬間的な「現在」のみということになります。死ぬときには「未来」の残余は限りなくゼロになっていくことでしょう。
たとえば子供のころある夏休みの早朝目が覚めたある日のことを鮮明に憶えています。その日は雲ひとつない快晴の日でかといって蒸し暑さなど夏の気温の不快さは一切感じませんでした。なぜそんなに鮮明に憶えているかというと、早朝目覚めて一番に考えたのはセミの幼虫を探しにいくことでした。夏の明け方はセミの幼虫が地面に穴を開けて地表に現れ木の幹などに上り成虫へと脱皮する時間帯だったからで、私はセミの幼虫を捕まえ寝床の脇のかや(当時は蚊よけのために蚊帳をはって寝ていました)に捕まらせ間近かにセミの脱皮の様子を観察したいと考えたからでした。セミの幼虫がカラから抜け出てその羽根に体液を隅々にまで送り込み羽根が広がっていくのを見ることをなにより楽しみに待っていたのです。その日の早朝目覚めた私にはその日の朝になすべき「未来」の出来事にとてもわくわくしていたことを思い出しました。当時の私にとってわずか数時間後のセミの脱皮というシーンが何よりも待ち望まれる「未来」だったのです。
「未来」という言葉にはですから「わくわくする」というような期待感が込められているような気がします。その意味で「灰色の未来」という表現は語義矛盾になるのではないでしょうか。「未来」とは元来「明るい未来」のみを指すのではないか。私はこう思います。ですから、そういう「明るい未来」というのは「未来」そのものが到来する前に感じられると同時にそこに可能性として現にあるものであるのではないかと思います。逆に言えば、「明るい未来」がないというのは「今」という現在の中に可能性として「明るい未来」が現に存在しないという意味になるのではないでしょうか。
とすると、「明るい未来」を描けない、正直考えられるのは今週いっぱいくらいだ、いや今日のことを考えるだけでいっぱいいっぱいだ、という心境で生活している人にとってそもそも「未来」を考える余裕もないし、実際にその人のこころの中には可能性として「未来」が現存しないことになります。
現時点のこの「今」においてある一定の「未来」の時間を可能性として享受する、楽しむという態度がないとき、その人には「未来」は存在しないか、「未来」のほうをみようとしていないかのどちらかになるのではないでしょうか。
ある人が時間の感覚において非常に狭い範囲内でのみ生きているとしたら、極端に言えば「今しか考えられない」生活をしているとしたら、それはこのうえもなく狭まった意識で生活しているということはなりはしませんでしょうか。逆に言うと、そういう狭い意識で生活する必要上、「未来」を無視したり「未来」のことを考えないように生きているといったほうがあたっているかもしれません。というのは、人体も含めて物体を客観的に知ろうすれば必ずその物体を容れる空間を必要とするのに対して、人が自分の気持ちやこころを客観的に眺めようとするなら、こころを容れる器であるところの「時間」を前提するからです。言い換えれば、自分の気持ちやこころのあり方や様子を知るためには自分の過去・現在・未来の三方から眺めてみないとその現実に即した有り様を観察することは無理だからです。もう少しいうと、意識がその場合無意識に飲み込まれてしまっているからです。時間感覚というのは非常に意識的な感覚なのではないでしょうか。意識が狭まれば狭まるほど人はこの薄っぺらな「現在」の中に意識を押し込むのではないでしょうか。