感情機能について

 ユングは人間の心の四つの機能について述べています。その四つとは、思考・感情・感覚・直感です。
 そして、ユングが言うには、これら四つの機能はどれかひとつが発達すればその対局にある機能が未発達になるそうです。
 たとえば、思考機能が発達すると、感情機能が未発達になります。理性で考えることはお家芸の人でも、ごく幼稚な動機の怒りにあっさり囚われてそこから脱出してなかなか平静にもどれない人がいます。
 思考−感情という二者択一のうち、思考機能ばかりが発達すると、感情機能が未熟なままにとどまるだけでなく、混沌した状態でそれ自体が無意識の世界に退行して、そこから意識を支配するようになるのです。
 逆に、感情機能が発達している人は、特定の考えに囚われるとその思考形態から抜け出ることがなかなかできません。ノーベル文学賞をとったほどの作家が、異星人の存在を固く信じ、晩年はそのことばかり著述していたなんて例は意外とたくさんあります。
 これは、感覚重視の人が直感を信じなかったり、直感に主に頼る人が、じっくり自分の目や耳や触覚などの感覚で捉えることを敬遠するのも、感覚と直感が対局に位置することを示しています。 感覚を重視する人は、「今ここ」を大事にし、直感重視の人は「今ここ」を超えた世界、時間を一足飛びに超えた世界を大切にします。感覚重視の人は時間とともに、また、時間と空間の中に、いることを好みますが、直感重視の人は目の前にある時空を束縛と感じそこから解放されることを欲求します。
 いま、私にとっては、むしろ、思考−感情の対立関係のほうが問題に感じるので、これについてだけ述べようと思います。
 思考と感情とはこころの共通性を持たない機能ですから、一方が他方を補うことはできません。つまり、感情の面で幼さが極端なのを、成熟した思考の力で補強することはできないのです。
 ついでですが、ユングは「感情」は合理的であると述べています。この表現は西洋人にとっても理解しにくいらしく、ユングがこのことw述べた講演でも、「合理的な感情とはなにか」という質問がたくさん出されました。
 ユングがそういう理由として、いくら怒っていても、「私は今あなたが言ったことでとても不愉快です」と表現するだけで、その怒りにとらわれることはなくなると述べています。
 つまり、気持ちや感情もさらりと言葉で表現されれば、巻き込まれることはなくなるというのであり、巻き込まれない限りでの感情の動きはエネルギー保存の法則に従うということで、裏表なく、表現されれば出口を見つけて外部に出て行くということなのです。
 問題は、そのような様々な感情のはけ口に値する表現形式を自分でもっているかどうか、ということなのです。作家は様々な登場人物を使ってありとあらゆる感情を登場人物に吐露させます。 フランスのモラリストは人間の理性ではなく、意志や感情といった暗くそれゆえより人間臭い部分への感受性を発達させました。
 感情機能が発達している人というのは、自分の感情表現が得意な人ということができましょう。
 感情表現が下手な人は、これとは反対に、怒りでも悲しみでも不安でも寂しさでも、すべて不機嫌や沈黙などで一緒くたに表現されます。それは表現というよりも、ただ抑圧されるだけです。
 つまり細かい襞まで表現されないどころか外に出すことさえできない無言の行になってしまいます。
 思考機能は発達しているだけに、どんな感情がどんな動機で、また、どのような生育歴で生じたかなどは、本人に理解できるだけに、感情表現できないことは二重に苦痛なことです。
 思考がいくら発達しても、いや、思考機能が発達すればするほど、感情機能の発達からは遠ざかっていくように感じます。
 感情機能から離れれば離れるほど、思考は孤立し傲慢さで防御せざるを得なくなります。
 高度な理性の操作ができる人が、うさんくさく思えるのは、この自分の感情機能から離れるからです。
 感情は自分の大切な一部で、重要な分身です。
 ある意味、感情機能は、こころの中のアニマすなわち心の女性像を司るかもしれません。
 天に対して大地がこの女性性を指し示すのですが、心の中の感情機能を無視すると、心の中のアニマが未発達になるばかりか、混沌とした凶悪なエネルギーとなり、魔女や恐ろしい女の姿で心を飲み込みその人の人生を食い尽くすというような逆襲を行うようになります。
 幼女でもあり鬼婆でもあるような恐ろしい姿で意識を攻撃するようになるのです。