考えるために
高校生の頃は地方の田舎町に住んでいたため、岩波文庫はおろか新潮文庫でさえ入手するのは一苦労でした。すんでいる町には書店は二軒しかなく、しかも片方は週刊誌や婦人雑誌中心の本屋さんでしたので、書店に立ち寄って目当ての本を買うことは期待できませんでした。
私が本を読み始めたのはずいぶん遅く、高校に2年になったか頃から本格的に小説などを読み漁り始めました。
高校1年のときもらったお年玉が5000円あまっていましたので、何を思ったのか私は文庫本を買うことにしました。当時安い文庫分で80円くらいで買えました。何でもいいから小説を読みたいという衝動で読み始めたのです。
ただし小説家の名前はあまり知りませんでしたし、現代ものの流行小説は読みたくなかったので、高校の現代国語の便覧を開いて島崎藤村だとか太宰治だとか予習してから書店に向かい20冊くらい買ったことを覚えています。
そのとき買ったのはほとんど新潮文庫だったと思います。大正から昭和にかけての名作と呼ばれるものでした。内容がよくわからなかったので表紙のデザインで気に入ったものを買いました。たとえば、よくわからなかったのですが、原民喜の『夏の花・心願の国』も表紙のデザインで買いました。井伏鱒二の『黒い雨』も表紙が黒くってなんとなくすごそうだから選んだものです。
こうして読み進むうちに次第に読書の世界がなんとなくわかり始めて、日本文学だけでなく世界文学に手を出すようになりました。最初は短編小説から始めて次第に長編にも手を伸ばすようになりました。最後はドストエフスキーやショーロホフやトルストイやロジェ=マルタン=デュガールやプルーストなども読んでみたいと思うようになりました。
始めて『罪と罰』を読んだのは高2のときだったと思います。あまりにも震撼して読み終わったあとはしばらく呆然としていたような気がします。エドガー=アラン=ポーの全集を手に入れて読んだときもしばらくぼーっとしていました。
こうして世界が広がるごとに、知らない人名や作品がだんだんわかるようになり、もっと読んでみたいとおもうようになったものです。
こんなとき、ぜひ読んでみたいと思った作品にサン=テグジュペリの『城砦』やフランクルの『夜と霧』とキルケゴールの作品がありました。前者は『星の王子様』の著者が飛行機事故で死亡するまでに書き溜めていた大作の遺稿です。またフランクルのほうはアウシュヴィッツの収容されたユダヤ人の心理について述べられたものです。また、キルケゴールは19世紀末のデンマークの実存主義の祖といわれる哲学者です。
今ではどれもも図書館でも古書店でも容易に入手できますが、当時は入手するのはたいへん困難か基本的に不可能でした。結局『城砦』を初めて手にしたのは大学に行くのに上京してあとのことでした。フランクルの『夜と霧』も高校の修学旅行で上京したときに入手できました。キルケゴールの本になると、これはもうずっとあとにことになりました。当時は地元の図書館にさえキルケゴールの本は皆無でした。岩波文庫になっていた『死にいたる病』や『不安の概念』などは注文して手にすることもできたかもしれませんが、それ以外の作品『あれか・これか』『人生行路の諸段階』などはまずあきらめることが最善の選択でした。
これらの作品名は倫理の教科書資料集などには載っていました。そして、現物を手にすることができない以上、その内容に関してはあれこれ想像する以外に道はなかったのです。実際、私は書名以外なんの手がかりもない状態で想像力をたくましくしました。もしかしたらこんな内容なのではないかとかこういうことが書いてあるのではないかとか取りとめもないことばかりです。蘭学事始でオランダ語に苦心してターヘルアナトミアを訳した様子が描かれていますが、当時は原書そのものがない状態でした。想像する以外に何もできないのです。行間を読むといいますが、その行さえない状態なのですから。
キルケゴールの『あれこ・これか』にはどんなことが書いてあるのだろう、とよく高校からの帰りがけに考えていたものです。しかし、今思うと、こういう情報が限られていた状態だったから、考えることはよくやったなという感じがします。情報がない分、考えることで補っていたのではないかと思います。たとえば、哲学書などほんの数冊しか手に入らない状態でしたから、何度も読み返しましたし、夕焼けや星空を見るのも「なぜ」という気持ちで見、かつ、考える対象にしていました。古代ギリシアの自然哲学者であるタレスは万物は水であると言いましたが、まさに当時の私も田んぼの広がる田舎の風景をいつも対象にして考える習慣があったので、古代ギリシアの自然哲学者と同じような精神生活を送っていたような気がします。
今だと、自然哲学者の断片集も全訳が容易に読めますし、キルケゴールその他の哲学者の本だって難なく近づくことができます。しかし、こうして便利になってしまうと当時のあの必死に想像し考えようとしていた態度が懐かしく思えます。
カントだったかハイデッガーだったか忘れましたが、哲学書を読むことで人は哲学することを忘れることができると言った哲学者がいました。読むことでなんとなく考えた気になってしまう落とし穴を批判しているのだと思います。