自分で気づかないということ

 人間関係の中でうまくいかないことがあると、どうしても人は相手のせいにしてしまいます。あの人がこう言ったからとか、あの人のせいでこうなったのだとか、とかく人にせいにしがちです。人のせいにするということは、その出来事に対して自分で責任をとらなくて済むということもありますし、ほかならぬ自分のせいでそれが起こったのだと認めることができないためでもあります。
 自分のせいでそれが起こったのではない、というのは、自分が相手なり対象なりに悪いを影響を与えたということを認めたくないということでもあり、それはとりもなおさず、自分自身が悪であることを認められないということでもあります。
 自分自身が悪であるというのは、自分の中に自分で気づかない毒の部分があるということです。つまり自分の無意識の中に毒なり汚穢なりが詰まっていて、それがほかならぬ自分自身であると認めることに他なりません。
 自分がこの悪の原因である、と認めることは、自分自身がどうしても認められないことのひとつです。それは自分のもっとも影の部分であり、もっとも自分自身が直面したくない自分の顔です。
 多面体があるとして、そのひとつひとつに自分の異なった顔が描かれているとします。人はその多面体の人格のひとつひとつを対人関係のなかで使い分けています。そしてその使い分け方が自然であればあるほど、人は自分の多面体の顔のひとつひとつに対して無自覚的であるといえるでしょう。多面体の場合、自分が意識している顔のもっとも遠い顔が自分でもっとも見たくない顔かもしれません。
 人は人間関係がうまくいかないと思うとき、この自分の自覚からもっとも遠い顔が原因になっていることに気づきません。そうすると自分自身でやったことなのに、自分が引き起こしたことなのに、自分自身が加害者であるところの被害者である相手のせいにしてしまいます。そうすると、被害者である相手と自分とのあいだに大きな対立と溝が生じます。コミュニケーションの壁です。被害者である相手にとっては、自分自身が原因であることは一目瞭然です。当たり前の話です。それなのに、自分自身がとぼけて自分の身の潔白を主張するなら、両者の対立は決定的です。
 自分自身の立場から見るなら、(被害者である)相手から「あなたが悪い」と責められるのはやりきれない濡れ衣です。そうして、このように自分を責め立てる相手を罵り、相手の馬鹿さ加減に呆れることになるのです。
 このように本来自分が原因の被害者である相手を責めるという逆転現象を引き起こすのは自分自身が自分自身の無意識に潜む自分の影−すなわちもうひとつの自分の顔を見ないために、生じるのです。
 自分で自分のもうひとつの顔に気づかないで相手を責めてばかりいると、ますます自分の無意識の顔から遠ざかることになります。そうすると、その人の行為はますます自分の影を切り離したものとなり、自分の無意識を無視した行為に走ってしまいます。相手から責め立てられるということは、いわば自分の影からの警告です。相手から責められることは非常に不愉快なことです。なにしろ自分自身が悪人扱いされるのですから、自分の自尊心が傷つけられ、自己というものの安定性が奪われてしまいますから、安心した精神状態での生活が奪われてしまいます。静かな日常が奪われてしまうのです。
 そうすると、このように責め立てられ相手とその責め立てられることそのことで、自分自身を反省する人もあれば、ますます激情に駆り立てられる人とがいます。
 自分自身を反省する人は自分の中のもうひとつの顔、自分の無意識、自分が無視してきた自分の可能性を無視することになります。それはとどのつまり、自分の半身を無視することになり、自分が左手でやっていることを自分で認めないということで、自己矛盾の中に自分を陥れていくことでもあります。そして自分をぎゅっと絞っていくことになるので、自己撞着のすえ、自分破壊をきたすことになるのです。
 ですから、自分のやっていることを認められない、自分の中にある残虐性を無視し続けていると、自分の影から復讐を受けることになります。
 まるで、ギリシア悲劇のオイディプスのように自己の運命によって罰を受けるのです。
 こうして初めて、自分の影に気づくことはとても悲劇的なのですが、それを肯定的に受け止めるか否定的に受け止めるかはその人ののちの人生を明るいものにするか暗黒のものにするかの分かれ道となることでしょう。