本当の学力とは何か

 

 週に何回か東京近郊の高校に教えに行っています。その学校は偏差値的には決して高くはないのですが、学校創立者の教えがまだ教員や生徒の中に染み込み、学校の中に生きているという印象を受けます。初めてその学校に勤めるようになった頃、驚いたのは生徒たちが歩いていようが急いでいようが、必ず廊下で一瞬立ち止まって挨拶してくれることでした。この立ち止まっての挨拶というのは徹底されているらしく、それを中途半端に済まそうという生徒はほとんどいません。ただし、本当に急いでいる生徒の場合は、急ぎながら立ち止まるので、止まった瞬間爪先立ちになり前につんのめるというのが見ていてちょっとほほえましくなります。
 ところで、この学校で驚いたことがもうひとつあります。それは、生徒の挨拶が−それは「おはようございます」であったり「こんにちは」であったり「さようなら」である場合がほとんどですが−心からの挨拶である点です。つまり、真心から挨拶しているという点です。
 そんな真心からの挨拶なんてどの学校でも指導しているじゃないか、と反論されるかもしれません。確かに、どの学校の生活指導部の先生方は、校内で挨拶するように指導します。挨拶は型どおりのものであってはならず、心からのものでなくてはならない、と指導されているはずです。しかし、都内のどの学校でも、挨拶は、いわゆる「挨拶のこだま」方式になっているようです。正しい言い方だったか自信はないのですが、ある大手古書チェーン店ではこの挨拶のやまびこ運動を実施しているそうです。
 挨拶の山彦というのは、客が店内に入ってくると、一番入り口側にいる店員が「いっらしゃいませー」と声をかけますが、奥のほうで作業している店員はこの最初の挨拶をシグナルとして受け取って「いらっしゃいませー」と挨拶し、こうしてフロアーにいるスタッフ全員がその新しい客に波状攻撃的に挨拶するというやり方です。
 私もその大手古書チェーン店によく行きますが、もうこの挨拶の波状攻撃に慣れ切っていて、もはや「いらっしゃいませー」という言葉の意味内容は私の心の中に入ってきません。ただの音としか聞こえないのです。いや、むしろ、「いらっしゃいませー」という言葉を発しているスタッフの人たちもいちいち心を込めてお客様に来ていただいて本当にありがたいと思って発声しているわけではなく、機械的にそう発音しているだけですから、もともと意味など言葉の中に包まれていないのです。そういう意味では、むしろ、この波状攻撃の挨拶を聞くとなぜか小ばかにされているような感情が沸いてくるのは私だけでしょうか。いわば、たてまえだけの挨拶に堕落してしまっているのです。
 都内の中高も、挨拶の励行を指導してはいるのですが、少子化の影響で経営が厳しくなっている折も折、生徒指導よりも進学率を伸ばすことにより重点が置かれる学校がほとんどです。どうしても挨拶の徹底に100%力を入れる学校は少なくなっていると見てよいでしょう。学校の上層部では、しつけも学力もどちらも伸ばしますと宣伝していますが、これはどちらか二者択一にならざるを得ません。なぜなら、学力や進学率や偏差値の高い大学に入るためには価値観が模試の偏差値や英語や数学の力などに集約してしまうからです。よい人間であることと偏差値が高くあることの間の価値観は自己中心的か他者のために奉仕する精神かの間ほど大きな開きがあり、一方を追求すれば他方がおろそかになるトレードオフの関係にあります(あくまで教職現場での経験からの判断にすぎませんが)。
 都内の中高では上に述べたような大手古書チェーン店でのやまびこ挨拶のようなあいさつを生徒たちがしていることにあるとき気づきました。確かに挨拶はしてくれます。しかし、その挨拶はただ発声だけの挨拶です。しかも、生徒たちは挨拶を義務感からしているような印象も受けます。
 私が行っている東京近郊の高校では、生徒一人ひとりがまずこちらに関心を持ってくれているのがじかに感じられます。ですから、挨拶をしているときは、生徒が持っているこちら側への人間的な関心がベースになっているので、「おはようございます」といい終わっても人間関係は続いているのです。人間的な暖かさを感じることができるのです。
 私は、最初のこの生徒からの挨拶に非常な感動をおぼえました。都内の学校では経験できないものでした。都内の学校ではそれぞれの生徒がとにかく忙しそうでした。忙しいというのは、物理的にまたスケジュール的にも忙しいのでしょうが、それ以上に、心の中に「しなければならないこと」が充満しているために心が「忙殺」されている状態であるように感じられました。自分の外にいる現実の他人にかまっている時間はないといっているように感じられました。ですから「おはようございます」と生徒が言っている瞬間だけ心の開口部がほんの小さな隙間を空けて一瞬間後にすばやく閉じてしまう、そんなイメージを抱いてきました。都市化の影響もあるでしょう。経済状況の影響しているかもしれません。都内の過激な受験競争も大きな影響を与えているでしょう。せちがらい世の中だけどそれが現実と受け入れてきました。
 しかし、先ほどから申し上げている学校では、まるで挨拶そのものに学校教育のすべてのエネルギーが注がれているかのような印象を受けます。数学や国語や英語ができても挨拶ができないようでは人間として失格であるという共通認識が生きているような感じを受けました。
 確かにこの学校の生徒はいわゆる偏差値としては決して高い学力は持ってはいないのですが、人間に対する関心は非常に人間的です。ですから、授業なども知らないことは知らないと素直に言いますし、平気で自分たちは馬鹿だからとも言います。しかし、そこには、「自分はできる」という防御の壁やうぬぼれや傲慢さが一切ないので、理解力は非常に高い素質を持っています。おそらくこの高校に入る以前の学校教育でアレルギーを作られたかもしれません。
 いわゆる進学校では、知識のひとつひとつが大学合格のために一種の貨幣価値を持つのかもしれません。これが出題されるから重要、これは出題されないから省こうなどです。また教員も、生徒の大学進学成功のために最大限の能率化を要求されるのではないでしょうか。すべてうまく教えられるかどいうかにかかってくるのです。教育マシーンに変貌することが奨励されたりもします。生徒も先生も大学合格のための知識、しかも究極的には生徒個々人の社会的な貨幣価値(つまり将来の賃金・社会的ステータス)を上昇させるために働くわけですから、これは、「幸福とは現世的物質的なものである」という命題を実践することにほかなりません。
 教員の立場としては、素の自分でいられる学校はまずないと考えているのではないでしょうか。教員のペルソナ(仮面)をかぶって校門をくぐるの常習となっている教師が少なくないのではないでしょうか。ある程度の教員としてのペルソナは必要でしょうが、強すぎればペルソナ肥大を引き起こし素の自分との懸隔を大きくしついには自我分裂にいたらないとも限りません。つまり、学校での自分は品行方正、熱血教師で私生活の自分は影の欲望を満たそうと夜の町もしくはインターネットの世界を徘徊する、というような二重生活になりかねません。
 和辻哲郎はかつて人間とは人と人の間という間柄的存在あると言いました。実に東洋的な人間観ですが、このような古くて新しい価値こそ学校で教えるべき現代ではないでしょうか。