本当の自分

  衝動的な怒りや暴力が日常的になっている家庭に育つと、どうしても子供はその中で
どうやって自分の身を守るかを常に考えて行動する癖がついてしまいがちです。
 怒りはいつやってくるかわからない。だから大人が怒っていないときでも、子供はいつも
なんらかの仕方で身構えて、無意識のうちで防御の構えをシミュレーションしています。
 子供時代に家庭の中で培われる行動様式は大人になっても無意識の中で演じ続けられ、
対人関係の中で、不安や恐れや様々なタブーの形で行動様式を維持し続けます。
 いわゆるDVの家庭で暴力にさらされて育った子供の中でも、ありのままの自分を出すこ
とが、もし、身の上に降りかかる苦痛を増加させることにつながるのであれば、そして、嘘を
つくことで割合たやすくこの苦痛や恐怖から逃れることができると学習したならば、そういう
子供は嘘をつくことを自分の身を守る強力な手段として身に着けていくことでしょう。
 大人からの罰を、嘘をつくことで簡単に逃れたり軽減したりすることができることを発見する
のはおそらく子供にとっては己の生存の道を約束してくれるものと見えたに違いありません。
 しかし、このように嘘をつくことで急場をしのいでいくことを常套手段としていくならば、その
代わりに、本当の自分を表明するチャンスを犠牲にしていくことを意味します。
 本当の自分の気持ちや、たとえそのために重い罰を受けることになろうとも、本当の罪の
告白を吐露する大切な機会を失ってしまうのです。
 そして、自分の本当の気持ちを表明することで、そのつど本当の自分に立ち返ることが
できるのに、いつも嘘の自分を演じ続けることで、「本当の自分」が育つ暇まで失うかもしれ
ないのです。
 虚言癖というものがあるとするなら、このように子供時代の危機の瞬間瞬間を嘘をつくこと
でかいくぐってきた人が、そのような虚言癖に陥りやすいのかもしれません。
 嘘をつくというのは口先だけのとりつくろいとともに、表情もそれらしく見えなくてはなりませ
ん。そして、表情をほんとうらしく取り繕うことによって、その本当らしい嘘の表情が今度は
自分の心に反対に作用して、心そのものが嘘で塗り固められてしまう可能性があります。
 そうすると、人は、心の中に本当らしいが実際は嘘の自分を大勢抱えて生きることになり、
これが本当の自分だといえる「自己」が育たないかもしれないのです。
 嘘を言っている間は「しめしめ」とほくそ笑んでいても、そのほくそ笑み、得をする「自分」
がいないのです。よりどころにする自分がいないのです。
 それだけでなく、生きていて楽しいと感じる自分さえいるのかどうかさえ怪しくなります。
 そのうえ、このような子供が大人になった場合、そのときそのときの対人関係においては
小さな嘘を重ねることで刹那刹那をうまくすり抜けていくことができるのですが、「すり抜けた」
あとの「自分として」生きる「自分」がないものですから、「すり抜ける」ことが手段となるその
目的が存在しないことになります。お金を稼ぐ苦労のあとに海外旅行を楽しむというような、
手段と目的の関係が成立しないのです。
 つまり、「本当の自分」を守るためにはじめた「嘘をつくこと」がついには対人関係における
「目的」そのものになってしまうというか、そもそも「対人関係」の中で「嘘をつく自分」しか
持ち合わせていないのです。一人でいるときの「自分としての自分」「本当の自分」がい
ないのです。
 おそらくはこのような人は、あらゆる対人関係の中で、相手が交代するごとに自分の顔
も取り替えていくのかもしれません。仮面を付け替えていくようなものです。
 あるときはやさしい自分。あるときは同情的な自分。あるときは冷酷な自分。あるときは
かわいそうな自分。そういう仮の自分の表情をそのつど相手によって一番効果的に取り替
えて生きながらえるのですが、問題は「何のために」という目的というか、生きる主体である
「本当の自分」を育ててこなかったことです。
 そうすると、嘘をつくこと、嘘の表情をすることは、もはや中毒の域にまで達してしまうこと
もあります。
 いわゆる多重人格的な症状です。
 嘘をつくことで本人がもっとも隠したいのは自分の汚点であり、罰を受ける原因、つまり
自分のやった悪いことです。
 しかし、嘘をつくことが常習的になっていると、このような加害者としての自分の悪事の
すべてが意識の中に入ってくることはありません。自分の悪事、自分のみじめさ、自分の
悪魔性は、人にも見せないようにしますが、自分自身にさえ自覚させることはありません。
 ここから必然的に「誤った自己像」を真実と思い込む自分が導き出されます。
 つまり「できる自分」「褒められて当然の自分」「好かれる自分」「輝いている自分」・・・
こういったものしか自分自身を認識する際に自己イメージとして出てこない、思い浮かばない
というようなことになりかねません。もし「あなたの自己イメージ」と尋ねられれば、そういう人は
相手の好意を得ようと卑下してみせるかもしれませんが、その人の内面にはポジティブな自分し
かいないはずです。
 逆にに周囲の人はすべて自分を輝かすための道具になってしまいがちです。
 自分自身が褒められたり評価されたりするための踏み台に(当然本人の意識にも気づかれな
いように無意識に)してしまうのです。
 また、自分の中にある「できる自分」を正当化するために、自分の中にある「みじめさ」
「無能」「悪魔性」などマイナスのイメージを周囲のい人々に投影します。
 たとえば、自分の犯した過ちは身近な他人のせいにされるのです。輝いている自分というイメージ
を守るために、自分の過ちを認めることは致命傷になるのです。
 悪いものはすべて自分以外のものに投影されます。
 ここまで書くと、ユングのシャドウ(影)を彷彿とさせます。そのとおり、嘘をつきなれている
人は、自分の中の過ちを認めないために、マイナスの自分の行動や感情や記憶をすべて無意識
の中に押しやり、そういう人のシャドウは膨大なエネルギーを蓄えることになるのです。
 問題なのは、そういう人が生活を楽しむ「自分」も持たなければ、同時に、「真に苦しむ自分」
さえどこかへ見失ってしまっているということです。
 嘘をつくことは「虚偽の評価される自分」を形成します。
 「虚偽の評価される自分」を維持することは、善と悪を二分的に自分と周囲の人に割り切って配分
してしまう見方をしてしまいます。
 すべて正しいのは自分です。すべて間違っているのは他人です。
 しかし、世の中にはそういうことはありえないということはちょっとものを考えればわかるはずです。
 そういう当たり前のことがわからなくなってしまうのです。
 自分は完全に一方的に正しく、他人はいつも間違っているのであれば、「見下し」
が生まれます。自分以外の人間は完全に間違っているのです。であれば、完全に正しい自分
が軽蔑するのも当たり前です。
 自分の間違いひとつ認めることがきわめて困難になっているそのような人にとっては
自分の過ちを認めることがまっとうな自分にいたる入り口といえるのではないでしょうか。