コンプレックス〜心の中の言う事を聞かない子〜

 先日、朝の通勤時間帯に電車に乗っていました。ただし、土曜日だったので車内は身動きできないほど混んではいませんでした。それでも8時前後の一番混む時間でした。
 他の車両より混んでるな、と思っていたら、どうやら運動部の試合に行くらしい女子中学生たちの集団が乗っていました。私はまだ完全に目を覚ましていませんでしたので割合ボーッとしていました。それで、中学生たちの話し声は別に気になりませんでしたが、やはりけっこううるさかったのでしょう、その集団の中の先輩らしき同じジャージを着た中学生が「みんな静かにして」と後輩たちーおそらくは中学1年生ーに言い聞かせていました。
 他の乗客を見回すと、たしかに中学生たちのトーンの高い話し声を迷惑がっている様子でした。先輩中学生もその雰囲気を感じ取って後輩たちをたしなめたのでしょう。
 ところが、5,6人いた後輩たちは一瞬静まるのですが、まるで先輩の言葉は耳を素通りしていったかのように、先輩が言い終わった後、何も起こらなかったかのように、再び喋り始めるのです。それを見て、先輩は二度三度注意を繰り返しましたが、結果は同じ、後輩中学生はまるで動物の反応のように人間の言葉はわからないとでも言う如く、先輩の発音が終了するとまた喋り始めるのです。
 つまり、この先輩はあまり後輩から恐れられていないようです。しかし、その上、この先輩自身も後輩を抑えつけることができない自分の不甲斐なさ。自身のなさを自覚しているようでした。
 後輩たちは、いじわるで先輩の言う事を無視しているわけではないようでした。悪気はないようでした。ただ、先輩の言葉は彼女たち一人ひとりの心どころか、耳にさえも届いていない、いやそれ以上に、彼女たち自身が5,6人が輪になって互いを見ていますから、自分自身を自覚しないままなので、「自分」に向けて言われているという自覚の持ちようがないのです。
 すでに言った通り、朝の低血圧でボーッとしていた私ですから、この光景をみてはがゆいとかイライラするということは私にはなかったのですが、それだからこそ、この光景を見て反省させられることがよりストレートに自分自身に感じられました。
 というのは、長い教員生活なのに、なぜか生徒に向かって「静かにしなさい」と
注意することにここのところ非常な苦痛を感じていたので、電車内の先輩の苦労が手に取るようにわかりました。私がクラスでやっているヘマはこれなんだ、と思いました。
 と同時に、私自身の中にも、先輩の言う事を聞かない無視する後輩たちがいるような気がしました。
 先輩が1メートルも離れていないところから注意しているのに、5,6人の後輩たちの誰一人、その注意が自分に向けられたものであると感じていない、そんな中学1年生の後輩たちが、私の心の中にもいるような気がしました。
 そして、私自身の意識では、こんな生活はいけないとかこの選択はよくないとわかっているのに、よりよい方向へ進むアドバイスを一貫して無視し続け、思うどおりの人生とは反対の人生を歩んできたような気がします。
 いわば自分の心の中に根強く残る幼児性が、電車の中の無視し続ける後輩たちを見て、いままでよりははっきりと自覚することができました。

 ユングはどこかで、心理療法が終結する印のひとつに、幼児性の脱却ということを述べていました。
 私たちは40歳になっても、50、60になっても、なかなかこの幼児性から脱却することはおろか、もしかしたら自分にそんな子どもっぽいところがあるなんて気付いてさえいないかもしれません。
 幼児性というのは、このコラムの冒頭に述べた、中学生の後輩たちのような、ユングが「心の小悪魔」とよぶところの、コンプレックスのことです。これをユングは、劣等意識とも呼んでいて、これに気づかずに人生を破滅に向かう人も少なくないと言っています。
 「わかってはいるのだけど」つい買ってしまう、つい飲んでしまう、ついカッとなってしまう、ついやってしまう、つい殴ってしまう、等々、これで人は自分の人生を思い通りに生きることから遥か隔たってしまうのです。
 思い通りの人生でなくても、自分の意識に反するような人生は歩きたくないものです。
 心の中の劣等な意識、コンプレックスは、しかし、これを通して、人が世界や仲間と結びつき、人が自分の無意識と結びつくものであるともユングは述べています。
 コンプレックスを暴くことではなく、コンプレックスに対してどのような態度をとれば良いのかを、自分の心は教えてくれます。
 ここに着目しながら、自分の心の中の「小悪魔」を見つめてみたいと思います。