地下700メートルの生活

 先日、南米のチリのとある鉱山で大規模な落盤事故が起こり、33名の従業員が地下に取り残され無事シェルターにたどり着いたが、救出には数カ月を要し、場合によっては今度のクリスマスまでには救出したいとチリの大統領が声明をだしたそうです。食料や水など生活必需品は坑道を通して送り込むことができるので生存だけは保証されたそうですが、地下700メートルでの生活を数カ月にわたって余儀なくされるというのは考えただけでも震えが来る話です。
 私はこのニュースを見たときなんともいえない暗澹たる気持ちに襲われました。計算上は確かに生存を保証され、一定期間を辛抱強く待つなら地上まで再び帰ることが可能なのですが、それはあくまで計算上の話で、実際に地下700メートルの狭くて不快で空気も汚れているシェルターの中でお日様の光にあたることなくこれからクリスマスまで暮らさねばならないとしたら、人間、そのような確定事項に耐えることができるのでしょうか。
 ドストエフスキーは『死の家の記録』というシベリア流刑の経験を元にした小説の中で「人間とはどんなことにも慣れることのできる生き物である」と述べました。確かに、地下700メートルのシェルターの中でも、空気と水と食料が保証されることが確信できたならば、一心地つけるかもしれません。そしていったん一心地つけば今度は「ここの生活も悪くない」ということに気持ちが移り変わるやもしれません。生命の危険が過ぎれば人間はパニックから回復しそこでの生活に適応しようとするのかもしれません。
 私たちの大部分は、このチリでの落盤事故のような体験をせずに世の中を生きています。しかし、精神的には「地下700メートルのシェルターの中での暮らし」をしている人は案外少なくないのかもしれません。
 「地下700メートルの生活」というのは、いわば、なんの希望もない生活のことです。要するに、絶望の生活です。ただ、私たち人間は「自分の人生は絶望だ」と意識しながら生きていくことには、やはり、耐えられないですから、何らかの気晴らしをしながら自分をだましだまし生きています。本当は気づけば「地下700メートルの生活」だと自覚されるのですが、自覚すればパニックになるので絶望に慣れるという仕方で自分を盲目にしているのです。
 地下70メートルであれば努力次第でこつこつ穴を掘り進めて地上に出ることができるかもしれません。しかし地下700メートルでは素手ではまず無理だと諦めてしまうでしょう。「不可能」の三文字が眼前に浮かび上がるわけです。「不可能」というのはある意味「死」を意味します。「できない」ということなのです。でも人間というのは「できない」と言われても生物学的に命がある間は「できない」ことを認めたがりません。そして、何とかして「できない」環境の中でも、生きていきたいのです。絶望に慣れることで、人間はそれを可能にするのかもしれません。
 しかし、慣れてしまうことは自力での努力を放棄することです。地下700メートルのシェルターに隔離されている人々がひたすら救助を待ち望むだけのなのと同じです。
 しかし、同時に、地下700メートルでの生活に慣れなければ、現実的に生き延びることは難しいのでしょう。救出を待つしかないのですから。
 絶望に慣れるというのには、だから、積極的・消極的、二つの役割があるのかもしれません。
 ですから、時が来れば、慣れることが意味を持たなくなる時もあるかもしれません。その時こそ、自分で生きようとしても事情が許されるときなのかもしれません。


                                   2010.8.30.